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2011.3.11東日本大震災を振り返る

公開日: 2020.11.09 Mon / 最終更新日: 2020.12.05 Sat

2011年3月11日(金)
空はきれいに澄みわたり、春の陽気に包まれたさわやかな朝でした。
街は週末の活気でにぎわい、道路は週末で人や車で込み合うどこにでもある日常風景。

いつもの一日が始まり、そして一日が終わるはずでした。
しかし、その日常が突然に崩れていったのです。

午後2時46分
石巻市蛇田地区の公園前、突然遠くからゴーという地鳴りの音が聞こえたかと思った瞬間、今まで経験したことのない大きな揺れが私たちを襲いました。
道を歩いていた人たちは、立っていることさえ出来ず、ただ波打つ地面の上を転がることしかできませんでした。電信柱は左右に大きく揺れ電線はまるで縄跳びの縄のようにビュンビュンと音をたてて揺れだしました。

どれだけの時間が経ったのでしょうか、実際の時間は数分だったのでしょうが、私にはとても長い時間に感じました。これがいつも感じているレベルの地震ではないことだけは、はっきりとわかりました。
地震がおさまると、家やビルの中にいた人たちが一斉に外に出てきました。はじめはどうしたらいいかわからずうろうろするばかりでしたが、やがてみんなの安否確認ができると、近くの学校などに避難をしようと動き始めました。

私は車で大通りに出ようとしましたが、すでに道路は車で大渋滞し動く気配が全くありませんでした。どこの道路も、川や海から離れるように片側のみが車で渋滞し、反対車線には一台の車も走っていません。

携帯電話で、会社や自宅に電話をしても通じるはずがありません。どうしたらいい、と考えたそのとき、私の脳裏には川沿い近くの家にいる年老いた両親の顔が浮かんできました。
そして、会社はみんながいるから大丈夫だ。(家にいる両親を避難させないといけない)と考えた私は、車を誰も走っていない北上川の河口方面に向け走らせました。

ラジオでは、どのチャンネルも地震情報を繰り返していましたが、頭の中は(津波が来る、避難しないといけない)との思いでいっぱいになっていました。
車の走っていない、大渋滞の反対車線の道路を走りながら、はじめて脳裏に「死ぬかもしれない」との考えが浮かんでは消え、目は必死に道路沿いのビルを探していました。

幸いなことに、自宅にたどり着くまでに津波は起きず、家も戸締りがされていて、人がいる気配はありませんでした。(両親は避難した、大丈夫だ。)と思って安堵した時、近くのビルの上にいた人から「津波が来るぞー」との声が聞こえました。

近所の家のお年寄りたちは、避難しようと道路に集まり、指定の避難所へ歩き出そうとしていた時です。北上川河口から水がみるみる道路に押し寄せてきました。
お年寄りたちと私は、慌てて病院の外の非常階段を2階まで上がりました。

やがて水は徐々に非常階段にもおしよせ、やがて通りにある車は徐々に浮き上がり、水路になった道路を流されていきました。数分ですべての道路は水路となり、駐車中の車、ごみ箱、看板、大木などありとあらゆるものを巻き込み流れていきました。        (続く)

 

<写真から見る震災の記憶1>
2011年4月6日撮影

自衛隊の方々により道が確保されました。奥に旧ハリストス正教会があります。中瀬にあった建物はほとんどがなくなり、あちらこちらが瓦礫の山になっています。

 

内海橋には、門脇方面から流れてきた家が打ち上げられたまま。係留されていた船は陸に乗り上げ、道路をふさいでいます。橋の欄干がすべて倒されいて、被害の大きさがわかります。

 

 

中央 橋通り付近は道路にある障害物は撤去されていますが、建物は倒壊し、危険な状態になっています。電信柱は大きく傾き、中には倒壊しているものも多くあります。

 

門脇南浜町付近は道路の脇に瓦礫が寄せられ、車が通れるようになっています。
津波で流された車は道路わきに積み上げられていました。お寺のそばにあったお墓も判別が出来ないほどになっています。奥には石巻市立病院がありますが、道は寸断されており行くことが出来ません。

 

焼け落ちた門脇小学校

焼け落ちた門脇小学校

手前には電信柱があちらこちらに倒れているのがわかります。奥には門脇小学校が見えます。津波が押し寄せたあと、門脇地区が火の海と化しました。火は夜になっても消えることなく燃え続けました。

文責:小野

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